このコラムを書き始めるにあたって、題材を何にしようかしばらく迷っていた。

書きたいことは、ぼんやりといくつかあったが、ここ数年ずっと胸の奥に引っかかっていたことを言葉にしてみようと思い、この題材に行き着いた。

読む人にとって有用かどうかはわからない。
正解を提示するつもりもない。

ただ、一つの考え方として読み流してもらえたら嬉しい。
もし、どこかで共感してもらえたら、それだけで十分だ。

子どもは、生まれながらにカイブツだと思っている。

なぜ、カイブツは消えていくのか

子どもは、生まれながらにカイブツだと思っている。

何時間でも同じことを繰り返す。
誰に言われなくても没頭する。
結果を気にしない。

親からみれば、異常だ。
その異常さこそがカイブツの原型だと思っている。
なのに、ほとんどの子どもはカイブツにならない。

なぜか。

才能がなかったからではない。
やめさせられるからだ。

やめさせているのは、だれか。
多くの場合、それは親。

もちろん悪意はない。

心配だから。
傷ついてほしくないから。
食べていけるか不安だから。

それは、愛しているからだ。
でも、その「心配」は、少しずつ子どものカイブツ性を削っていく。

NBAのスーパースターになる

私の息子は、NBAのスーパースターになると言っている。

親の常識では、非常に確率の低い話だ。

日本からNBAに行ける選手は、ほんの一握りだし。

身長、身体能力、環境、競争。

冷静に考えれば、簡単な話ではない。

それでも私は、止めない。
止める権利はないと思っている。

なぜなら、彼の人生は彼のもの。
親が持っているのは、経験だけだ。
確率を計算することもできるし、現実を知っているという自負もある。

一方で、後天的に身につけたこの「現実」こそが、生まれながらに持っていた無限の可能性を、静かに縮めていくのではないだろうか。

子どもは、現実を知らない。
だから本気で夢を見る。

親は、現実を知っている。
だから夢を“現実的なサイズ”に整える。

その差が、カイブツになるかどうかの分岐点だと思っている。
そして、その分岐点に最初に立つのは、たいてい親だ。

現実を教えることが、子どもを守ることだと信じている。
はたして、本当にそうだろうか。

守っているのは、子どもではなく、親自身の不安ではないだろうか。

たまたま、一緒にいる

子どもは、親の所有物ではない。
たまたま、人生の時間を一緒に過ごしている存在だと思っている。

子どもは、親の人生の延長ではない。
親のリベンジでもない。
親の安心材料でもない。

一人の独立した人間だ。
私は親という役割で、たまたま隣にいるだけだ。

だから、彼の夢は私の夢ではない。
叶ってほしいとは思う。
でも、叶えさせたいわけではない。

この二つを混同した瞬間、子どもは“私のもの”になってしまう気がする。
私にできることは、ただ無言で隣にいて、邪魔をしないこと。

私がこれまでの人生で身につけてきた“古い正解”を、彼に押し付けないこと。
私の不安を、彼の限界にしないこと。

それだけだ。

人生は予測できない

彼はNBAのスーパースターになるかもしれないし、
ならないかもしれない。

飽きるかもしれない。
諦めるかもしれない。

怪我をするかもしれない。

別の道に進むかもしれない。

そんなことは予測不能。
考えるだけ無駄だろう。

それよりも大切なのは、

彼が夢の中で過ごす時間を邪魔しないことだ。

私の「親としての人生」は、
この一点に全振りして、演じ切ってみようと思っている。

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