粘土という、誰しもが幼少期に触れたことのある素材を使いながら、見る者の心に消えないざわつきを残す「気持ち悪いもの」を作り続ける男がいます。
フィギュアイラストレーター・デハラユキノリ。彼の仕事場から生み出される年間約300体ものフィギュアたちは、東京、台湾、香港、ニューヨーク、パリと世界中を駆け巡り、熱狂的なファンに迎え入れられてきました。
NIKEやASICSといった世界的ブランドとのコラボレーション、国民的お菓子「きのこの山」のキャラクターデザインなど、誰もが一度は目にしたことのあるメジャーな仕事を手がけながらも、デハラさんは自身の毒のある作風を1ミリも曲げることなく、25年以上にわたり第一線で走り続けています。
一見すると、天才が好きなことだけをして成功した物語に見えるかもしれません。しかしその軌跡を深く辿ると、そこには自分の「好き」を貫くための徹底した生存戦略と、自分の感性を肯定してくれる場所を自ら手繰り寄せた、執念とも呼べる行動力がありました。

デハラ ユキノリ/フィギュアイラストレーター
1974年、高知県高知市生まれ。土佐高等学校、大阪芸術大学デザイン学科卒業 。京都の広告代理店に就職後、1年で退職。24歳で単身上京し、イラストと粘土立体作品を武器にフィギュアイラストレーターとして活動を開始した。NIKE(2001年)やタワーレコード(2002年)、「きのこの山」のCMキャラクター「きの山さん」のデザイン(2008年)、いきものがかりのベストアルバムジャケット(2010年)など、国内外で多数の実績を持つ。年間約300体のフィギュアを制作し、東京、台湾、香港、NY、パリなどで年間4〜6回の個展を開催。「好きしか、作らない」という信念を25年以上曲げずに活動し続け、50歳からは「断る勇気」を掲げて、利益を度外視した純粋な表現の追求に挑んでいる。
孤立した感性を救った「面白いじゃん」という全肯定

デハラさんの創作の原点は、高知県で過ごした少年時代にまで遡ります。幼い頃から絵を描くことは好きでしたが、彼には「人より特別に優れている」という自覚は全くありませんでした。周囲の友人が成長とともに表現から離れていく中、デハラさんだけは中学、高校と成長しても、一人で表現することをやめませんでした。
しかし、当時の彼は自分の創作を誇っていたわけではありません。思春期という多感な時期、家でこっそりと粘土をいじり、奇妙な形を作り上げていることがもしバレてしまったら、「大変なことになる」と恐怖を感じ、隠密行動のように制作を続けていたといいます。自分の内側から湧き出る「好き」が、世間一般の「普通」とはズレていることに、薄々気づいていました。
そんな彼を救ったのは、中学時代の友人の存在。デハラさんが描いた、顔中にイボのあるおじさんのような、お世辞にも「綺麗」とは言えない絵を見た友人は、嫌悪感を示すどころか、さらりと「面白いじゃん」と言ってのけたのです。
自分でも面白いとは思っていたけれど、誰かに「面白い」と言われた体験は、何物にも代えがたい別格のものでした。一方で、隣に座っていた女子生徒にその絵をひどく嫌がられた経験も、彼にとっては重要な指針となりました。
王道を行くことがかっこいいという価値観が主流だった進学校において、自分の描くものが「普通の人には気持ち悪いらしい」と自覚した瞬間、彼はむしろ王道ではなく自分の「好き嫌い」で道を選ぶ方がかっこいい、と確信するようになったのです。この小さな、しかし決定的な他者からの肯定こそが、彼が表現者として生きるための最強の武器となりました。
組織での「機能不全」と、お腹の痛みというサイン

大阪芸術大学でグラフィックデザインを学んだ後、デハラさんは京都の広告代理店に就職します。当時の彼は「昼間は会社員として働き、夜は帰ってきてからバリバリ描けばいい」という、二足のわらじ生活を楽観的に思い描いていました。
しかし、現実はその淡い期待を無残に打ち砕きます。
仕事の疲れと同僚との「付き合い」で制作時間は削られ、飲み会にも行きたいしで平日は時間が溶ける。ようやく迎えた休日も、平日の反動で昼過ぎまで寝てしまい、ソファでダラダラと過ごすうちに終わってしまう日々。
さらに追い打ちをかけたのが、デザイナーとしての「不自由さ」でした。和菓子のパッケージデザインを担当した際、デハラさんが愛してやまない原色のピンクを使うと、上司からは激しい叱責が飛びました。「伝統的な和菓子にそんなピンクはない。もっとパステル調の、藤色を使え」と。
クライアントの要望に応え、組織のルールに従うことは、会社員として「正しい」姿でしたが、デハラさんの内なる「好き」とは真っ向から対立するものでした。次第に「会社へ行こうとするとお腹が痛くなっちゃうような……」と本人は語りますが、あくまで気がしただけ。身体的な拒絶反応というよりも本能的な、危機察知としての拒否が現れたということでしょう。
結局、2回目のボーナスを受け取ってすぐに退職。この「サラリーマンとしては機能不全」だった時期があったからこそ、彼は自分を無理に曲げて適合させる努力を捨て、自分の感性を100%解放できる場所へ向かう決意を固めることができたのです。
空白の2ヶ月と、母親による叱咤激励
退職後、デハラさんはいったん高知へ戻りましたが、すぐに活動を始めたわけではありません。同じく就職していなかった友人と連日のように朝まで飲み歩き、リビングで力尽きて眠るような、自堕落とも言える2ヶ月間を過ごしていました。将来へのあてはないものの、親は「この子たちは何かできるはずだ」と黙って見守ってくれていたといいます。
そんなある日、ついに均衡が破れます。泊まり込んでいた友人のサボり癖・逃げ癖を見過ごせなかったデハラさんの母親が「あなたたち座りなさい」と二人を呼び出し、激しく叱責したのです。
タイミング的には友人への説教のはずですが、母親も溜まりにたまっていたのでしょう。千載一遇のチャンスとばかりに、実の息子に対しても「だいたいアンタだって、いつまで経っても東京に行かないじゃないか」と。
ついでに叱られた貰い事故感はぬぐえませんが、この言葉に背中を押されるように東京へと飛び出しました。持っていたのは、「イラストレーターになる」という明確な目標と、デザイナーの売り込み方法が書かれた一冊の書籍、そして自身の作品ファイルだけでした。
迷ったら終わり——「ちんぽこ」が象徴する直感とスピード

東京という巨大な市場で、デハラさんはある戦略的な発見をします。
イラストレーターとして売り込みに来るライバルは星の数ほどいましたが、粘土の立体作品を袋からガサガサと取り出し、編集者の机に並べるような人物は他に一人もいなかったのです。
その圧倒的な違和感は編集者たちの記憶に刻まれ、「面白いじゃん」という肯定が生まれ、仕事の依頼へと繋がっていきました。
デハラさんの創作を支えるマインドセットは、極めて潔いものです。彼は「あまり悩まない」ことを自分に課しています。それは粘土という、思いついてから形にするまでのスピードが圧倒的に早い素材を選んだことにも起因しています。
「迷い出したらもう終わり。答えがないから。答えのないことに答えを求めようとしちゃうから、立ち止まっちゃうんです」
この思考の速さを象徴するのが、「ちんぽこだと思ったら、ちんぽこ作って、そんなに迷う必要がない」という彼の言葉です。もしこれが石の彫刻であれば、半年かけて削っている間に「これは本当にちんぽこでいいのか?」と気づき、立ち止まってしまうかもしれません。「ちんぽこを掘り続けた半年間は何だったんだ…」と。
しかし、粘土なら思いついた瞬間に「思っちゃったんだもんね」と、自分を疑うことなく形にして、世に出すことができるのです。失敗したと思えば、また次の新しいものを作ればいい。このスピード感こそが、彼を過去の評価や他人の批判に縛り付ける暇を与えないのです。
市場を自分に合わせる「戦略家」としての顔

デハラさんは、自分の作るものを市場に合わせるのではなく、自分の作品を「面白い」と評価してくれる人がいる市場を自ら探し出すという、徹底した環境選びのプロでもあります。
東京に出て感じた衝撃的な経験の一つに、報酬の格差がありました。雑誌のカット仕事で3万円を受け取っていた頃、同じような作風で広告の仕事を手がけると、その報酬は100万円に跳ね上がったのです。
「作るものは全く同じなのに、媒体が違うだけでこれほどお金の動きが違うのか」という気づきは、彼に「お金をくれる場所に自分を持っていく」という重要性を教えました。
現在は、個展での作品販売、メディア広告、自社グッズの展開、そして地元高知でのラジオ番組出演など、収入源をあえて多角化させています。これにより、たとえ一つの仕事が否定されたり不調だったりしても、他の仕事に忙殺されることで「腐っている暇がない」状態を意識的に作り出しているのです。
「自分の市場価値はシビアに見ています。欲しい人がいない場所に持って行っても売れないですから」と語る通り、彼は自身のセンスを絶対視しながらも、それをビジネスとして成立させるための客観的な視点を併せ持っています。
50歳からの挑戦——「断る勇気」と純粋な「好き」への回帰

2024年に50歳という節目を迎え、デハラさんは自らの原点である「純粋な創作」へと立ち返ろうとしています。その「好き」を貫く力の根源には、かつて自分の描く「気持ち悪い絵」を「面白いじゃん」と肯定してくれた友人との出会いがありました。
自分が誰かの一言に救われた経験を持つからこそ、デハラさんは今、かつての自分のような迷える若手たちの「肯定者」となることを厭いません。相談に来る若者には、プロとしてのシビアなマーケティングの視点を授けつつも 、最後には「もしどこにも市場がないなら、僕が面白いと思ったものは僕が買う」と、全肯定でその背中を押します。
たった一人の「面白い」という言葉が、一人の表現者の命を繋ぐ。その価値を誰よりも知っているデハラさんの「好きしか、作らない」という冒険は、次世代へのエールを孕みながら、これからも続いていきます。
好きなことを自らの意思でやめるのは勝手です。でも、たとえ親であっても他人が「そんなのやめておけ」「食べていけないよ」と邪魔をするのはいかがなものか。
デハラさんはそんな風潮に対して、
「可能性が低い順に選択肢を潰して、人生は楽しいですか?」
という問いを投げつけてくれました。
自ら環境を切り拓いてきた彼の信念そのものです。 自分の「好き」を信じ抜き、肯定される場所へ自らを運ぶ。そのシンプルな原則を貫く先に、自分らしく生きる幸福が待っています。
デハラさんの手の中で、今日も新しい粘土の塊が、誰かの魂を揺さぶる「面白いもの」へと形を変えていくのです。彼の「好きしか、作らない」という冒険は、これからも終わることはありません。




